無免許運転による交通事故と刑事罰強化の是非

 先日の京都府亀岡市無免許運転による交通事故に続き、昨日の6/7の23時45分頃に再び、沖縄県恩納(おんな)村仲泊の国道58号の交差点で、同様の交通事故が発生した。今回は、13歳の中学2年の男子生徒が無免許で軽自動車を運転し、対向してきたオートバイと接触事故を起こしている。幸い死者は出なかったようであるが、中学生ら5人が重軽傷を負ったという。
 前回は18歳の少年が無免許で居眠り運転を行い、通学途上の7歳の生徒と引率の保護者の2名が命を落とす痛ましい事故であった。今回は、深夜に国道でオートバイと接触事故を起こし、中学生らが重軽傷を負っている。無免許運転をして怪我をした中学生に対する同情の意思は全くないが、オートバイを運転していたのは33歳のタイル職人だったというから、この職人さんが気の毒でならない。
 前回の亀岡の交通事故では、沿道に民家が建て込んだ旧道であり、かつ周辺に小学校があって通学路になっていると分かっていながら歩道や信号機などが無かったため、道路管理者である警察や地方自治体にも責任が無い訳ではない。
 もし通学する生徒への安全性が担保されていたならば、無免許で居眠り運転などという常識では考えられないドライバーがいたとしても、人命を落とすことが回避できたかもしれないし、周辺の住民も安心して道路を歩けるだろう。
 交通事故で家族を亡くすと、遺族は直ぐに刑事罰の強化を求める。医療事故などと異なり、朝、元気に家を出た子供が変わり果てた姿で亡くなっていたとなると、遺族には無念さが残るという気持ちは理解できる。医療事故で子供や家族を失った場合は、子供や家族に対して声を掛けたりする時間などがあるため、それによるところが大きいと考える。
 小中学校から高校まで、交通教育が行われているが、これらは国民皆免許を前提とした交通安全教育である。それゆえ学校では、車が接近してきた際の身のかわし方や怪我をした時の応急処置の方法を教える。私は、それらも大切であるが、生命尊重という観点から、車社会の負の側面こそ教える必要があると考えている。小学生に、車社会によるコミュニティーの分断や中心市街地の空洞化、治安の悪化まで教えることは無理であるが、交通事故で家族を失った家族の悲しみや、加害者になった際には、一生掛かってその罪を償わなければならないということを教える必要がある。
 私の言う生命の尊重とは、人の命は非常に重要であり、現在のような効率一辺倒で、オンタイムに商品やサービスを提供する社会に警鐘を鳴らしており、スローライフな生活も取り入れる必要性を感じている。
 だが刑事罰の強化には、反対の立場である。たとえ刑事罰を強化したとしても、相手が子供であれば、それを問うことはできない。そのため単純に刑事罰を強化することには反対である。刑事罰の強化だけでは、交通事故は減らない。亀岡市の場合、微妙であるが、今回の沖縄の場合は、相手が13歳であるために、明らかに未成年である。
 さらに今回は、人々が寝静まった深夜であり、かつ車に乗車していたのが中学生であるため、自動車を貸した側および管理している側の責任が問われるだろう。
 「車は走る凶器である」と言われるが、正しくその通りであり、交通事故を極力無くすようにするためにも、筆記試験(暗記試験)だけでなく、運転能力適性検査なども行い、総合的に判断する必要はある。また今回のように軽自動車を盗むか、自宅から無断で持ち出した?ようなケースも起こりうるため、自動車所有者も悪用されると大変なことになるという自覚を促すため、車庫証明取得時などに警察がその旨を自動車所有者に説明しなければならない。
 未成年による自動車による事故(事件)が連続しているため、私大人は自動車の管理に細心の注意を払うと同時に、安易に子供に自動車を運転させないようにしなければならない。